「おかげさまでありがとう」
北條不可思/ほうじょうふかし
「恩」について思いを巡らせた時、佛陀の教えに帰依する僧侶である愚生においては、つきつめれば「仏恩(ぶっとん)」のほかはありません。
もちろん、人間関係をより深める要素として「恩」を捉えることも出来ます。親子、夫婦、兄弟姉妹、師弟、友人、知人という間柄が良好であればプラスの方向に作用するけれども、愚かなことに、その関係性にズレが生ずると、「恩知らず」「恩着せがましい」といった反発する感情の種になることもあります。縁に応じては、反発が対立になり、決裂へと発展してしまうことにもなります。それが国と国との間に起きれば戦争です。
仮に相手の行為に不足不満があっても、お互いに敬いの気持ちを持って理解したいと願い、相手の言葉を注意深く聞く姿勢を保てれば、結果的に共感を共有できなくても憎しみ合うことは回避できるかもしれません。とはいえ、そうそう聖人君子のように誰とも等しく一貫した態度を堅持できるでしょうか。少なくとも、愚生には出来ません。だからこそ、自らの心を仏さまの言の葉の命を頼りに歩むほかはないのです。
愚生は、島影に夕陽の沈む瀬戸内に臨む浄土真宗本願寺派の寺院の長男に生まれ育ちました。幼い頃、本願寺派布教使の父は年の三分の二は布教で全国を歩いていました。留守を任された母も僧侶でした。五歳下の弟が誕生するまでは、母とふたりの留守番だったので、帰ってきた父が座卓に落ち着くひとときがとても好きでした。両親は寸暇を惜しんでご法義話に熱中するので、布教先での土産話もいつの間にか御法義話になります。そんな時に、ここぞとばかりに父の膝の上に陣取り、頭上で交される会話に聞き入っていました。やがて弟が生まれる頃には物心もつき始め、両親の話の内容もおぼろげながらもわかってきます。それは、人間として生まれたことの喜びよりむしろ悲しみとの出遇いでありました。
よく憶えているのは、母が誰彼となく話していた妊娠中のエピソードです。生まれ来る我が子の骨を丈夫にしようと、ジャコをたくさん食べていたそうです。『オギャァ』と産声をあげる前から大切に思われていた証ですが、それは、命として母の身体に宿った時からすでに他の命をいただかなければ生きられない身であったことを知らしめています。もちろん、生き物である人間の動物的な側面から見ればごくごく自然なことですが、その当たり前なことが当たり前ではないことを知ったのです。現実は厳しいというけれど、命そのものがつきつけてくる厳しさは、社会的、道徳的な罪ではなく、他の命を喰らうという罪なくして維持することが出来ないという厳しさなのです。それが、ごまかしのきかぬありのままの我が姿です。それをあるがままに見つめ、歪めることなく向き合うよりほかはありません。とするならば、生まれてきたからこそ死があるという道理を受け入れなければなりません。愚生もまた、苦悩の源が、人間として生まれてきたことだったのかと、思いつめた日々がありました。その絶望を、人は早熟すぎるとか、青臭いと笑うかもしれません。しかし、誠に不可思議なことに仏さまは、「心配ない、大丈夫。必ず救う」と呼びかけて、この「私」をめあてに悲願をかけてくださっているのです。罪を罪として思えない「私」を救いとって下さる大慈悲心をいただき、その仏恩を報ずる姿が合掌の本当の意味だと教えられました。そして愚生においては、『すべての命よ おかげさまでありがとう』の一心で手を合わせるほかに、出来ることはないのだと思い知るに至りました。猫の目のように変わる心模様に惑わされてしまう「私」だからこそ、仏さまの声を聞くよりほかはありません。
それはやがて、愚生の心に届く真実の声に耳を澄ませて、生きる力尽きるまで自分なりの歩調、自分なりの歩幅で廻る日々を歩いていきたいという願いになりました。そして、13歳の頃から熱中してきた音楽や、見よう見まねで始めた自作の詩曲作りが、愚生が聞かせていただいたことや教えていただいたことを表現し、メッセージしていくひとつの方法になるのではないかと思うようになりました。恩師の言葉や、法兄の激励に背中を押されて『歌うお坊さん』としての活動を始めました。現在では、様々な差異を越えて語りかける場として、『縁絆(えんばん)コンサート』の自主プロデュースというスタイルになりました。もちろん、何もかも上手くいくことなどありません。予想外なことに心乱れ、挫折の繰り返しです。それでも尚、人が作り出す価値を超えた真の意味を仏さまにたずねながら歩いていくだけです。
ところが懲りもせず、その意味に価値を見い出そうとするところが人間の悲しい習性です。食事一つをとってみても、味の濃淡を問わず、品の多少を問わずと教えられているのに、味の濃淡を問い、品の多少を問うてしまうのです。ありのままにあるがままの心になれないのです。一度お説教を聞いたからなどと油断している場合ではありません。お坊さんなら迷いも間違いもないなんて思い込んだら最後、闇に落ちていることにさえ気がつけません。波が引いては返すように、何度でも仏意を訪ねることに極まれると先達が遺言された言葉に間違いはないとつくづく思います。
人様に助言ができるような愚生ではありませんが、ご法事をお勤めされることの意味は、そこにあると思います。そして同時に、自分自身の命とつながっている人への「おかげさまで ありがとう」の気持ちを表す尊いご縁になると思います。
だからといって、亡き方を偲ぶ気持ちに定められた条件はありません。今生での別れに際してどのような思いを抱くかは予測が出来ないのですから。悲しみに沈むこともあれば、やるせなく暮らすこともあるでしょう。怒りに似た感情を燻らせる人もいるし、まったく何も感じられない人もおられるかもしれません。親が、連れ合いが、我が手に抱くことさえ叶わなかった子が命を終えなければならない現実に直面した時、言葉に尽くせない思いと向き合わざるを得ないことでしょう。仏さまは、そのいずれの在り方も大智の眼差しですべてを見通し、大慈悲心で包んでくださっています。愚生は、ご縁の方々のご仏事をご一緒にお勤めさせていただく度に、出会いと別れを超えた大いなる願いのご恩徳に遇わせていただいていると信じています。
この拙文を結ぶにあたって、改めて見つめ直してみても、「恩」といえば、「仏恩」のほかありません。すべての命に生かされて生きている我が身を省みつつ、「おかげさまで ありがとう」の念いで我が人生を歩き抜いて参りたいと願うばかりです。
(浄土真宗本願寺派僧侶,シンガー・ソングライター)
※2010年7月小脳梗塞となるが、九死に一生を得る。
2011年7月には、息子・慈音が食事を詰まらせ、1時間以上にわたり
心肺停止という重篤な状態から一命を取り留める。
現在は、様々な援助を頂きつつ、在宅で一息一息を頂いている。
この生活の中から、阿弥陀如来の
深い深い智慧と慈悲のはたらきを味わいつつ
歌い続けている。