☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆FUKASHIHOJO.COM:北條不可思ブログⅠ・愚螺牛雑感記《Blog officiel de Song & BowzuMan》

"Song & BowzuMan” since 1981 & ENBAN “縁絆・野聖物語” concert endlesstour since 1996

Song&BowzuMan39BOOK+special CD《歌嘆骨音:KATAN・KOTON》〝歌うお坊さん/Song & BowzuMan″の39年をchachattoちゃちゃっと総ざらい


Song&BowzuMan39BOOK+special CD《歌嘆骨音:KATAN・KOTON》
39book regular edition Front cover


Song&BowzuMan39BOOK+special CD《歌嘆骨音:KATAN・KOTON》
39book regular edition back cover


Song&BowzuMan39BOOK+special CD《歌嘆骨音:KATAN・KOTON》 

 歌うお坊さん/Song & BowzuMan″の39年をchachattoちゃちゃっと総ざらい 

北條不可思×オデッタM

――月並みですが、ギターを弾き始めたきっかけは?
ボブ・ディランの『風に吹かれて』とジョン・レノンの『アクロス・ザ・ユニバース』を知ってしまったから。1961(昭和36)年生まれなのでリアルタイムではないけれど、ラジオの深夜放送に耳をそばだてながらメロディにのった言葉が世界を変えると信じた小僧のひとりです。ギター1本でメッセージを発信できるんだっ、と。中1でした。純粋に驚き、憧れの12弦ギターを手に入れてどっぷりつかりました。「○○より勉強!」という価値観と真逆の両親で助かりました。初心者の第一関門〔F〕のコードをものにした時には、『弾き語りなら誰にも頼らずただ一人、どんな場所でもステージに出来る』という境地でした。
――世の中とは少々のずれを感じていた思春期だった?
子供の頃からずれていたかも(笑)。本人はいたって真剣でも周りの大人から見れば……ということが。
5歳になる年に幼稚園に入園しました。でも5月に弟の大慈が生まれたから家にいようって。もちろん毎朝仕度して連れ出されましたが、母より早く帰って眠る大慈の傍らに座っていました。自分だけが通れる道があったんです。浄土真宗本願寺派布教使である父は年中布教で不在でした。「お父ちゃんのかわりに大ちゃんを守らねば!」と本気で思い実行したまでです。母も月参りなどで法務に出てましたから。3歳でお坊さんになろうと決意した自分に幼稚園は行くべき場所と思えなかったし(笑)。何事にも鷹揚で強要しなかった両親には感謝するばかりです。

――その後は得度・音楽活動と順調に?
 17歳の時、父の第1期都市開教専従員の任命拝受に伴われて相模原へ転居した時は経済的理由で高校中退を選択しました。もともと希望していた東京仏教学院への入学は、NHK学園(通信制)編入、高卒資格取得をもって実現しました。毎日(月~土)築地本願寺へ通い東仏の教室で、生まれてからずっと聞きかじっていたことに初めて学問として向き合ったのです。得度習礼を終えるまではギターもお休みで没頭してました。ところが念願かなって僧籍を頂いてみたら、ハタッとお坊さんが音楽を通してメッセージを表現するなんて無謀すぎる…と、恐ろしくなってきました。
――それは躊躇? 「やめておこうか」みたいな感情?
 表現したい思いは変わらずありました。でも、音楽の力で『お寺のこちらとあちら側』みたいな無いようで有る垣根を越えたいという思いが明確になればなるほど足がすくむ。ひと言で説明するのは難しいけれど、伝えたいことをしっかりと誤解なく届けられるのか?と。例えば、自分が詩を書く上で『愛』という言葉は必要不可欠なのですが、『愛』は感情を表す一般用語である一方、仏教では人間の煩悩のひとつである『頓愛(とんない)/執着心』を示します。僧侶である自分には軽軽に使えない。ひとたび考え始めると、そういう言葉は限りなくあるので、自問自答の深みに落ちていくようでした。

――命題のような難問にどう答えを出したのですか?
 それはもう、恩師の林水月和上のおさとしです。
 水月先生は広島出身で中国新聞論説委員の経歴を持つ異色の本願寺派司教(1981年当時、その後勧学)でいらっしゃいましたが、私には、広島弁での講義が遠い故郷で聴くご法話そのものでした。先生に教えて頂けたことは、生涯にわたって宝の中の宝物です。
 学院修了間近という頃、たまたま本堂口の階段下で先生をお見かけして呼び止めてしまいました。先生は、静かに話を聞いて下さってから、「阿弥陀如来さまのご本願を賜り、宗祖のみ教えを仰いで精一杯に表現されれば大丈夫。しっかりとがんばりなさいませ。自慢の教え子じゃからね」と答えて下さいました。あの時の穏やかな笑顔を今なお覚えています。

――以来、迷うことなく活動を続けているのですね?
 逆です。迷いは常にある。けれどもやりたい気持ちが勝る(笑)。
 ただ、息子・慈音の障害が判明した時は、「無理、出来ない……」と思いました。そしてシンプルに音楽好きのオジサンになろうと。でも、妻から「自分のせいで辞めたと知れば慈音が傷つく」と言われました。母は強し、ですね。それでも逡巡しました。慈音が6か月ぐらいの頃に『子守唄を聴きながら』という曲を書きましたが、その後2年ぐらい1曲も書けなかった。我が子の重度の障害という事実を、親としてどうしたものかと悶々としていた頃に大慈が言ってくれたんです。
「叔父としてなにができるか分からない。でも、慈音に何かする人がおるならその人の前に立ちふさがって、わしを踏み倒してからにしてくれって頼みたい。慈音がいじめられるのを見とうないんよ」。それで心が決まりました。慈音と共に果てなき心の旅をしようと。そして『遊牛の詩』が出来ました。二人では無理だから妻であり母である人も当然このエンドレスツアーに巻き込みましたけど。

――エピソードにまつわる作品はほかにもありますか?
 ほとんどすべて。空想では作れません。『笑顔を忘れない』は本当にテレビで視聴した映像から書き始めました。とはいえ、日常を切り取って歌うというタイプではないですね。若い頃に「そういうのがウケる」と助言されましたが、「ウケたい」とは思ってない。演奏の技量は乏しく、語彙力も低い。『浄土三部経』『教行信証』『御和讃』『歎異抄』が創作活動の拠り所です。そして、不思議にも聞こえてくる聲や心に灯って消えない明かりがある限り創作への欲求は枯れないのかもしれません。愛別離苦は、人の苦悩を示す四苦八苦の一つですから避けようがありませんが、様々な出遇いや別れを重ねれば重ねる程にめぐる思いがより一層深まるからなのかもしれません。
 長島愛生園(岡山県)で知遇を得た真宗同朋会の多田良輔様はお手紙の中で『生涯をかけて差別と闘う』と記して下さいました。慈音が握手として差し出した足をそのままに受け入れ、『忘れられない』と綴る深い優しさと共に、尊厳をかけた闘いに挑み続けられた氏の信念を常に脳裏に刻んで歌い続けたいと思います。

――いつも旅の途中・通過点ということですね。
その通りです。道のりは、〝まさかの坂″の連続です。まさか、自分が緊急搬送されるとは‼(2010.7.9)。翌年3月に東日本大震災‼ 7月に慈音が心肺停止で緊急搬送‼ 自発呼吸が戻り2か月半後に帰宅‼ そのさなかにも作品は生まれレコーディングを続けていました。〝業″でしょうか。でも、複視と温痛覚という心原性右小脳・脳幹梗塞の後遺症を得て初めて考えたことがたくさんあります。運転免許証返納もそのひとつです。そうこうしていたら2014年には妻が深部静脈血栓と極度の貧血(子宮筋腫の為、翌年手術)と診断‼ あたふたしながら、誰もが〝まさかの坂″の途上にいると痛感するばかりでした。
今は新型コロナウイルス(COVID-19)で緊急事態宣言が発令されている真っ只中です(2020.5.3現在)。またたく間に世界中に感染が拡大して、まだ治療薬もワクチンもないので、唯一の対処法は世界共通〝STAY at HOME(おうちにいよう)″。それは、老若男女の分け目なく、国境もなく、一人一人に自覚と覚悟を促す言葉だと思います。「あなたはなにを頼りにこの坂を歩きますか」と問われているようにも感じます。その答えに差別と排斥を選ばない勇気を持ち、医療の最前線にいる人、社会生活の維持を守り支えてくれている人、そしてその人たちの家族への敬意と感謝を忘れてはいけないということを、心に深く留めておきたいと思います。   
来(こ)し方を振り返ると、両親をはじめ往生の素懐を遂げた方々の懐かしい面影が浮かびます。恋しく思えば寂しさも募ります。独りで出来ると選んだギターの弾き語りをひたすら続けて来たら、共に〝今″を歩いてくれる人がいつもいました。感謝の言葉は尽くせませんが、「おかげさまでありがとう」です。

――では、これからも、ということで?
 はい。〝有漏うろしん″にかなう限りこれからも。